夢幻の世を超えて──バルド、夢ヨーガ、そして光明への道

「この世がかりそめの夢の世であることに気づかぬのが、人の世の心の常である」金春禅竹

「世の中は夢か現か、現とも夢とも知らず、ありてなければ。」

(この世は夢か現実か。そもそも、あるともないとも定かではない)

『古今和歌集』・よみ人しらず

「神は言い給うた。実際には眠っているのに、彼らは目覚めている、と汝は考えるであろう」『コーラン』18章18節

「一体、この世界は幻影の上に成り立っている。それなのに、人はこの世界を現実と呼ぶ。それが目に見え、直接感覚に訴えてくるからだ。そして、この世界の存在の源となる形而上的なものを幻想と呼ぶ。本当は正反対なのである。この世界こそ夢幻である」イスラムの神秘家ルーミー

「夢を見ている時は、それが夢だとは気づかない。夢の中でさらに夢占いをすることさえあるが、目覚めてはじめて夢だったと気づくのだ。人生にしても長い夢のようなもの、真のタオに到達した者だけが、その夢であることに気づくのだ」荘子『斉物論』

「世俗の存在は、長く続く夢、あるいは心が作る幻にほかならない。」

『ヴァーラーハ・ウパニシャッド』

「現代人は眠りの中で生き、眠りの中で生まれ、眠りの中で死ぬ。」

グルジェフ

『チベット死者の書』には、次の四つのバルドが出てきます。

バルドとは、「途中」を意味します。

1. 存在世界のバルド

2. 死のバルド

3. 心の本性のバルド

4. 再生のバルド

チベット密教カギュー派のナーローの六法では、これに夢のバルドと瞑想のバルドが加わります。

バルドの旅の途中で現れる仏や菩薩、神々、光、恐ろしい出来事は、すべて自分のカルマ、すなわち業が作り出した幻や夢です。したがって、それらに執着してはならないと教えられます。

現実と思っている日常も、幻であり、夢見であり、バルドの一部にすぎないので、すべてのバルドはカルマが作り出した夢、幻である、という意識が生じるようにします。

そして、すべての現象は光明の中から生じてくることを知るのです。

瞑想が進み、「目が覚めているのでもなく、眠っているのでもなく、夢を見ているのでもない」という、どれでもない意識状態を保てるようになると、覚醒夢、あるいは光明の夢を見るようになります。

夢見の技法をまとめると、次のようになります。

静かな場所を選び、就寝時には熟睡しすぎず、できるだけ浅い眠りを保つようにします。右手を枕にして右脇を下にする姿勢がよく、女性は左脇を下にする姿勢がよいとされます。

まず、夢の内容を詳細に覚えていられるようにし、それを発展させるように促します。次に、訓練によって夢を増やし、夢の最中に恐怖が起きても、それを幻として認識できるようにしていきます。そして、夢の現実を瞑想の対象とするのです。

夢を観照し、自分が見ているものが己の心の作り出した幻にすぎないことを理解します。

意識を保ったまま夢を見る明晰夢は、光明を得るために必要な段階とされています。チベット密教では、明晰夢を見ることは光明への道なのです。

夢も日常も、どちらも夢だと自覚できるようになると、さらに夢を自分で変容させられるようになります。

ナーローの六法では、夢ヨーガを行じる前に、その前行として「内火(トゥンモ)」があります。

内火(トゥンモ)は、クンダリニーとも関連づけられるヨーガの技法です。中脈(ドゥーティー)と右脈(ロマ)、左脈(キャンマ)が交わる下部の生法宮と呼ばれる場所に熱を作り出し、それを頭頂のチャクラへ向かわせます。さらに頭頂からは、「白い菩提心」と呼ばれるエネルギーを下降させます。

キリスト教神秘主義やブッシュマンのトランスダンスにも、クンダリニーヨーガと同様の現象が見られます。

女神との合一を中心とするタントラ・ヨーガには、宗派ごとに異なる象徴が見られます。

ヴィシュヌ派の文脈では、女神ラクシュミーがシャクティとして中脈(スシュムナー管)を上昇し、ヴィシュヌと合一します。シヴァ派では、シャクティが上昇してシヴァと合一します。こうした女神シャクティの上昇と神との合一は、クンダリニー・ヨーガに共通するモデルとなっています。

「内火(トゥンモ)」の技法によって心身のエネルギーの通路とチャクラを浄化した後で、夢ヨーガを行じるのです。心身を浄化しないままヨーガを行うことは困難であるだけでなく、危険でもあると警告しています。

クンダリニー・ヨーガでもやはり心身が十分に浄化・準備されていない状態でクンダリニーを性急に覚醒させることは、精神的・身体的な混乱を招く危険があると警告されています。

グロスボディ(粗大身)に働きかけるのがハタ・ヨーガです。しかし、それより上位の身体であるサトルボディ(微細身)に働きかける際、下位の身体が十分に浄化されないうちに進めてしまうと、上位の身体へ移行していないにもかかわらず、移行したと錯覚することが起こりえます。

まだ自分自身のものになっていないのに上位の構造へ移ろうとすると、融合せずに分化し、下位の構造に執着してしまうのです。

大いなる存在に明け渡すには、明け渡せるだけの、しっかりした自我がなければなりません。

大海原へ航海に出るには、やわな構造の舟では荒波に耐えられません。

すぐに浸水し、難破してしまうでしょう。

自我の境界線を超える航海は、自我の死への恐怖をもたらします。

そのため、世界の終末や破壊のヴィジョンに襲われることがあります。

夢や神話、臨死体験、『死者の書』には共通の構造があります。

驚異的な光の存在との出会い、巨大なドラゴンや悪鬼といった想像上の怪物、恐ろしい魔物、大蛇、山や森に宿る動植物の精霊などが登場し、助けられたり、あるいは退治されたりする物語が展開します。

意識の旅の途中で、恐ろしい怪物に飲み込まれ、道に迷ってしまうこともあります。夢は人格化された個人の神話であり、神話は集合無意識の夢なのです。

瞑想者は、「私」という現象が集まっては離れ、消滅し、また現れるのように実体がないことを、自覚しておく必要があります。

夢の中で、自分が夢を見ていることを自覚すると、意識はクリアになり、景色の色彩が鮮やかに眼前へ広がります。無限の力が湧き、意識は高揚します。

夢は物質世界ではないので、夢だと気がつくと、何をしても傷つくことはなく、崖から飛んでも落ちることはありません。空を飛ぶことも自在になります。

しかし、夢を見ているかぎり、そこには夢を見ている「私」がいます。

どんなに素晴らしい体験をしても、見ている私、つまり体験者がいるうちは、どのような体験も必ず過ぎ去ってしまいます。それは永遠のものではありません。

仏教で瞑想の最高の段階、無色界の最上階を「非想非非想処(ひそうひひそうじょ)」といいます。

別名、「有頂天」ともいいます。

日常会話における「有頂天」とは、喜びで舞い上がること、ひとつのことに夢中になり、うわの空になることです。

宇宙の果てまで行っても、クンダリニーが上昇しても、天上界や霊界に行っても、宇宙人、天使や神々、ブッタ、キリスト、とにかく、どんなに驚愕する体験をしても有頂天になってはいけません。

やはり、それは夢の中の出来事なのです。

それはサトルボディ(非物質的身体)による観光旅行にすぎないわけです。

夢に巻き込まれているマインドに気づいているものが、本当の自分です。

本当の自分だけが夢ではないのです。

体験を追い求めたり、素晴らしい体験に有頂天になったりする動きそのものが、光明から自分を遠ざけてしまいます。

そして、夢を見ているものと見られているものとの分離があるうちは、微妙な二元性が残っています。

光明に溶け込むには、まだ至っていないのです。

見る者をマインドが見ようとした瞬間、それは見ようとしたマインドが「見られるもの」になってしまう、という無限後退に直面します。

「これを見ている私は誰か」と問い続け、探しても探しても、「見る者」そのものが実体として見つからないことに気づく。その気づきから離れず、気づきそのものとしてとどまることが大切です。

体験者と見ている私そのものを対象化しようとする限り、堂々巡りになります。

どんなに素晴らしい体験が現れても、それに巻き込まれず、かといって退けることもせず、ただ「見ている」という状態そのものにも執着しない。そのような態度が求められます。


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